どの宗教でも同じか
どの宗教でも結局は同じことだ、とよく言われる。
「分け登る、ふもとの道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」
登る道が違うだけで、目標も到着点も同じだ。ある宗教は神といい、ある宗教では仏という。ある宗教では観音と言っても、名こそ異なるが、所詮は同じものを言っているのだろう。だから、どの宗教を信じても結果は同じだと放言する人がある。
これは全く宗教に対する無知からくる、無責任極まる暴言である。
特に、このようなことを言う人はインテリ階級と呼ばれる連中に多いが、これこそオルテガ・イ・ガセットの名言「学問ある文盲の徒」と言うにふさわしい。
近代の日本人は、宗教に関しての知識が余りにも幼稚であることは有名であるが、ここに面白い実話がある。
ある人が、ある宗教の信者から、
「信仰というものは理屈じゃないから、何も考えずに素直に信心しなさい。必ず、大きなゴリヤクがあるから」
と熱心に勧誘された。
信心は理屈ではない、という漠然たる信仰観しか持たなかったその人は、同感してとにかく「素直になって」その宗教の信者になったのである。
すると間もなく別の宗教の信者から、前と同じように素直になって、と入信を勧められたので又素直になって、前の宗教を脱退してその信者の勧める宗教に入った。
ところがまた他の宗教から同様、理屈ぬきに素直になってと誘われて、これにも素直に従ったが、暫く考えていたその人は、
「こんなことをしていてはキリがない。真実の宗教は1つしかない筈だ」
と気が付いたというのである。
抑々、宗教は永遠の魂の一大事をあずかるものだが、こんな曖昧な考え方で、どうして我々の魂をまかせることができようか。
宗教は唯一絶対真実を説くものでなければならない。絶対とか真実なるものが、ここにも、あそこにもあるというものである筈がない。
もしそんなものなら、絶対の真実ではなくて相対のものでしかない。
釈尊が仏教以外の宗教は総て邪教だと教えられたのは、決して我田引水ではないのである。
また龍樹菩薩が、仏教以外の全宗教を悉く摧破せられたのも当然のことである。
親鸞聖人また、
「九十五種(仏教以外の全宗教のこと)世をけがす、唯仏一道清くます」
仏教のみ真実だ、と喝破なされている。
蓮如上人も、
「これ、あさましき外道の法なり、これを信ずる者、永く無間地獄に堕在する」(御文章)と厳しい。
これを排他的だと言う者は、真の仏法を知らないだけである。