(73)大石内蔵助の13年間
先見と熟慮
かの大石内蔵助が、播州(兵庫県)赤穂藩の家老をつとめていたころである。
城下の町人の中に、赤穂で塩を造ったら、おおいに藩の財政を潤すだろうと考えた者がいた。
そこで同志を帯同して、家老大石に面会し、“赤穂藩のためにぜひ”ご許可を〟と懇願した。
こまかい彼らの申請を、つぶさに聞いていた大石は、やがてこう答えている。
「なるほど、その方らの考えは大変おもしろい。よく検討したうえ、沙汰しよう」
おそくとも3カ月か半年中には、認可されるだろうと、町人らは鶴首して待っていた。が、1年たっても2年たっても、なんの音さたもない。
光陰矢のごとし、はや5年の歳月が流れた。
「大石さまも、わかったような顔をしていても、なにもわからないものだ」
一同あきらめて、忘れかけていた13年目、ようやく呼び出しがかかった。
「13年前、その方らが、製塩の許可を願い出たことを覚えているか。
あの話を聞いたときから、よい発想とは思ったが、よくよく考慮したところ、問題があったのだ。
まず、塩を煮るには薪がいる。薪をたくには木を切らねばならぬ。多くの樹木を切ると山がはだかになる。はだかの山に大雨が降ってみよ。
たちまち洪水だ。大洪水になれば田畑はメチャメチャ。農業の荒廃は一藩の荒廃じゃ。
そう気がついたので、あれから13年、植林に尽力してきた。
もうそろそろ木を切り出しても、山がはだかになる心配はなくなった。
よって、その方らの製塩事業を許可する。おおいに城下が潤うよう、つとめてもらいたい」
後日、四十六士を結集し、いくたの困難を乗り越えて、みごと、主君の恨みを晴らす、大石内蔵助の智慮の周到さを、ここでも、かいま見ることができるようだ。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)