(78)殺して生かす
相手を裏切り、ののしられ、
迫害も覚悟しなければならぬこともある
アメリカが今日のように、交通機関が発達していなかったときのことである。
夕闇せまる田舎道を、和気あいあいの乗合馬車が走っていた。
ガス灯のゆれるウス暗い車中には、立っている乗客はなかったが、ほぼ満席であった。
やがて馬車が、うっそうと生い茂った、奥深い山道へとさしかかったころ、どこからともなく、物騒なささやきが聞こえてきた。
「ここによく、ギャングが現れるそうだ」
「乗合馬車が、よく襲われるそうだが、今日はだいじょうぶだろうか」
「そういえば、ギャングのでそうな、さびしい道だ」
すると一人の青年が、ワナワナとふるえて、隣席の紳士に相談を持ちかけた。
「今の話は本当でしょうか。私は今、汗とあぶらでためた3千ドルの大金を持っています。もし、これを奪われたら、私は死ぬよりありません。どうしたらよいのでしょうか」
紳士は、静かにうなずき、
「私がよい方法を教えましょう。靴の中へ隠しなさい。足の下までは調べないでしょう」
青年が教えられたとおりにした直後、ギャングの一団が馬車を襲った。車内に踏みこみ、シラミつぶしに乗客の金品を略奪し始める。
そのとき、ギャングに件の紳士が叫んだ。
「この男は、靴の中に大金を隠しているぞ」
ギャングたちは、思わぬ大戦果に酔い、後はろくに探そうともせずに雀躍と立ち去った。乗合馬車は、何事もなかったかのように、また走り続けたが、乗客は異口同音に紳士を罵倒し、ギャングの一味だと青年は激昂し、殺気がみなぎる。
「すまない、すまない、今しばらく辛抱してください」
紳士は、おだやかに、くりかえすばかりであった。
馬車は町へ着いた。忍耐の限度を超えた青年は、紳士につかみかかろうとする。
「すまなかった。実は私は、10万ドルの大金をもっていた。3千ドルも大金ですが、それで10万ドルが救われました。お礼に1万ドルをあなたにさしあげます。どうか、お許しください」
ことの真相を知った青年は深く反省し、心からお詫びと謝礼を述べたという。
人生には、より大切なことを遂行するために、一時は相手を裏切り、ののしられ、迫害も覚悟しなければならぬことのあることを、知っておかなければならない。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)