(77)甚五郎のネズミはうまかった
技量と智恵
名工といえば左甚五郎。
日光東照宮の“眠り猫”、上野寛永寺の“昇り龍”など、あまりにも有名である。
江戸初期、播磨国(兵庫県南部)に生まれた。
本名は、伊丹利勝。生まれつき左ききで、左手一本で仕事をしたので、左甚五郎と呼ばれる。彼も「左」を自分の姓にしたという。
菊池藤五郎は、甚五郎と並んで、当時、彫刻界の双璧といわれた。
碁、将棋、野球、相撲、剣道、プロレスなど、何事も他人は、競争させ、応援したがるものである。ひいき筋はそれぞれ、日本一の名工と誇り、時にはエスカレートして、血なまぐさい争いまで起きる始末。
“だいたい、日本一が二人いるのがおかしい。決着つけてほしい”の要望が、世間に満ちていた。
耳に入った将軍は、両人を呼んで、こう命じた。
「どちらが日本一か。その場で、ネズミを彫刻してみよ」
両者は必死で、ノミをふるう。
チョロチョロと、今にも動き出すような2匹のネズミを一見して、将軍は驚いた。
まったく甲乙つけがたい、みごとなできばえであったからだ。
困惑の将軍に、側近の智恵者がささやく。
「ネズミのことなら猫が専門家。猫に鑑定させたらいかが」
大きくうなずいた将軍は、さっそく広場に2匹のネズミを、離して置かせ、猫に狙わせる。
放たれた猫はまず、藤五郎の彫ったネズミに直進した。
“藤五郎が日本一か”と思った瞬間、どうしたことか、パッと吐き捨て、甚五郎のネズミに突進、ガブリとくわえて、飛んで逃げ去ったのである。
万雷の拍手と歓声が、甚五郎にあがった。藤五郎のネズミは、木で彫ってあったが、甚五郎のは、鰹節で作ってあったのだ。
技量だけでは、真の名人とはいわれない。臨機応変の智恵が必要なのである。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)