(79)すぐ100万円を持っていったのは、なぜか
恩知らずになりたくない
不治の病にかかった大富豪が、奇跡的に快方に向かった。
全快に近づいたとき執事を呼んで、
「すぐに主治医へ、100万円包んでお礼にいってくれ」
と命じた。
「だんなさま。全快なさってからでよいのではありませんか」
不審そうな執事に、こう富豪は話したという。
「いや、すぐでなければならぬのだ。あの絶望のとき、もし私の病を治してくれたら、全財産をさしあげてもよいと、本心から思った。
ところがどうだ。危機を脱すると、そんなにまでする人はないのだから、半分ぐらいにしておこうか、に変わってきた。
だんだん調子よくなるにつれて、3分の1でもよいのでないか。財産の執着が次第にふくれ、100万円だすのもバカらしくなってくる。医者は病気を治して当然でないか。いくら治療しても死ぬ人がいる。治ったのは医者の腕とばかりは言えない。してみれば法外な礼は、他人に笑われるだけ、と考えだしたのだ。
こんな私は、健康体になってからだとビタ一文ださず、請求されるまで自分の手元において、利子まで計算するにちがいない。
そんな恩知らずに、私はなりたくないのだ。起きあがれないときに100万円持っていってくれ」
〝借りるときのえびす顔、返すときのエンマ顔〟といわれる。
就職をたのむときや、なにかお世話になるときは、愛嬌をふりまき、おべっかのかぎりを尽くす。
このご恩、終生忘れはせまいと、そのときは思うのだが、いつの間にやら見向きもしなくなるのが人情である。
ご恩をありがたく感謝する者は成功し、ご恩を当然と流し去る者は、必ず信用を失う。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)