血統と仏教
世間には、血統をやかましく言う者が多い。俗に、筋がよいとか悪いとか、身分が高いとか卑しいとか言われる。特に結婚などの場合はやかましい。
あの家はガン筋だ、テンカン筋だ、ハンセン病筋だといって、結婚の相手をそっちのけにして破談にしてしまう。
また、あの家は血統がよいからといって、相手かまわずに結婚する者もいる。
しかし少々深く考えてみれば、これ程くだらないことはない。
我々が、血統を云々できるのは、精々2、3代までのことであって、30代、50代、いや、もっとそれ以前に迄さかのぼって、先祖の血統を調べたら、どんなものが出てくることだろう。
石川五右衛門が、どこかへ強盗に入って、そこの娘に産ませた子もいるだろうし、昔の大道芸人の落とし子も、我々の祖先にはあるかも知れない。
また、平家や源氏の血も流れているだろうし、秀吉の血も流れているだろう。他人のものさえ見れば欲しくなるのは、石川五右衛門の血が流れているからではなかろうか。
女性さえ見れば、目が輝くのは好色な秀吉の血が騒ぐからかも知れぬ。他人を征服し、思うままにしたい心が旺盛なのは、平清盛の血であろうか。
このように自己を掘り下げてゆくと、我々の血は、やがて、全人類の血に連なっていることが分かる。
アメリカ人の血も、ドイツ人の血も、アフリカ人、中国人の血も流れている。
また、我々の遠い祖先には、何千人、何万人、ハンセン病や結核で死んだ者がいるか分からない。
目や耳、言葉の不自由な身体障害者や精神障害者の祖先も数多くあったことであろう。
このように考えてみると、目先の血統の、よしあしなどを問題にして、人間を差別視しているのは、愚の骨頂と言わねばならぬだろう。
同時に、テンカンや、ハンセン病や、目や耳に障害の血統のある人でも、一生その身に発現せずに済むことが多いが、間違いなく万人平等に発現する、嫌な、悪い筋が我々には沢山あることを知らねばならぬ。
どんな人間でも、段々老化してゆく老人筋、病にかかる病人筋、やがて死なねばならぬ死筋等、絶対まぬがれぬ怖ろしい血統を、いくつも持っていることに驚く人が少ないのは、どうしたことだろう。
それだけではない、この外にも我々には、種々の悪質な怖ろしい血統がある。
ちょっとしたことで腹を立てる腹立て筋、あってもあっても欲しい欲しいと思う欲深筋、ネタミ、ソネミ、ウラム、いやらしい愚痴筋など、数えあげればキリのない悪性な筋を持っている。
いや持っているだけではなく、日々夜々、それが発現して我々を苦しめ、ことごとに醜態を演じているのだ。
釈尊の出城入山も、親鸞聖人の決死の求道も、この怖ろしい我が身の血統に驚かれてのことであった。
かくて、絶対無二の阿弥陀仏の本願に邂逅し、救われられた。
ここに、一切の人々が平等に救われる大道が、切り開かれたのである。