金はいくらでも出す、助けてくれ
夏、かまびすしく鳴き叫んでいるセミには、やがて死ぬ気配など微塵も見あたらぬ。
しかし、セミのオスは、幾年もかかって土の中で作りあげた、あの精巧な楽器を僅か一週間内外使って死んでしまう。
七日間と言っても、羽化して四日目でないと鳴けないから、正味三日になる。
たった三日鳴くと、何処かで独り淋しく、楽器を抱いたまま死んでゆく。
思えば、はかない一生ではある。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
蓮如上人の白骨の章にある名文である。
親が子を討ち、子が親を討つ、あの戦乱の中で、この無常の厳しさをさとり、仏法の真実さを、ハッキリ見きわめられたが、その無常の真理は、今日消えうせた訳ではない。
『徒然草』の兼好法師は「死は前からだけくるものだと思っているのは大間違いだ。死は、後ろからもおそってくる」と言っているが、今日は上からも下からも、死はおそってくる時代になった。 歩道を歩いていると、建築中のビルから機材が落下して、児童が圧死する。道路からは、ガスが噴き出し爆発して大量の死者を出す。
現在日本では、この平和な空の下で、日清戦争の戦死者を、はるかに凌ぐ交通事故の犠牲者が出ている。
平和な空と言ったが、その空には原水爆を積んだ飛行機が飛び続けている。
アメリカのボーリング博士や、ラップ博士は「若し、米ソが貯蔵している水爆を使ったら、全人類と文明を七十五回、完全に壊滅させることができる」と断言したのは五十年前のことである。
現代医学の発達は素晴らしい。診察や治療の方法も昔日の比ではない。にもかかわらず、誤診はあとを絶たない。
名古屋大学の和田義夫博士によると、誤診率は二十二・五%もあったと報告されている。
いわゆる、四人に一人の割合で誤診されていることになる。
医療ミスが繰り返される現状を見ると、無条件に医療も信頼できないことが分かる。
しかし我々は、医療の進歩が如何に人類の福祉に貢献したかも、高く評価している。
今更、抗生物質や放射線の効用を述べたてる必要はない。
それにしても現代人は、余りにも医薬や医療を過信している。医薬万能の迷信におちいっているようだ。
けれども、医薬はあくまでも、人間の生命を、いくらか延ばしてはくれるが、死の解決はしてくれない。
人間は妙なもので、自分だけは永遠に生きられると思っている。
死は、他人のことだと思い込んでいる。
妄想顛倒も甚だしいが、これが我々の、いつわらぬ実相である。
日々の新聞紙上に死亡記事の載らない日は一日もない。
あれを読んで、自分の死に結びつけて考える者は、暁天の星である。おめでたい限りだが、みんな他人の死にすりかえている。
仮に人間が、健康、愛欲、地位、名誉、財産、権力の一切が満ち足りたとしたら、その上に何を望むものがあるだろうか。
人間最後の願望である永遠に生きたい、との衝動にかられる。
不意の刃傷に遭い「金は、いくらでも出す、助けてくれ」と叫んで死んだ力道山(戦後、絶大な人気を誇ったプロレスラー)を笑うものは笑われるだろう。
それ程、生命への愛着は抜き難いものがある。
ところが生ある者には必ず死がある。
死が人生の行く手に立ちはだかったら愕然として絶望せざるを得ない。
アリストテレスは、「哲学は驚嘆から始まる」といった。
パスカルは「人間は考える葦である」と言う。
この厳粛な死を考えたら「これでよいのか」の驚きが、必ず起こってくる。これが仏法の出発点である。
死を忘れての一切の営みは無駄であり、死を見つめ、死を超える者にのみ真実の生が開かれることを忘れてはならない。