鼻もちならぬ善
釈尊は、人間の実相を「曽無一善」と説かれ、親鸞聖人は「一生造悪」と言われている。
一生造悪とは、一生の間、悪しか造ることができない、ということで、微塵ほどの善も認められないことである。
それでは、時には我々も、親切や施しをやったりするが、これらもみんな悪になるのか、という疑問がおきてくる。
勿論、仏教でも、親切や布施行は勧めてこそおれ、悪などとは絶対に教えていないから親切や布施は善に違いない。
ただ、悲しいことには、我々の行う善には毒が含まれているので、真実の善とはいわれないのである。微塵ほどの悪をも容赦しない仏教の立場から、我々の善と考えていることを検討してみよう。
よいと思ってやっても、他人がそれを認めてくれないと、腹が立つのは自分のやったことが、よいと自惚れているから、やらない者を悪者のように思えてくるのだ。
時々我々も、親切らしいことや、布施行の真似ごとをやるが、情けないことには、やったことを何時までも記憶している。
そして密かに自負している浅間しい心だ。受けるよりも、与える喜びを知ってはいるが、「与えた」という意識が残り、それに対する何らかの報酬を期待する心が去らない。
そして一度その期待が裏切られたり、満足に得られない時は、猛然と腹が立って心の中で相手を殺す。
それは先に善いことをしてやったという、自惚れが元であるから、大きな善ほど猛毒が含まれている。
仏眼から見れば、人間の善根功徳は、俗気芬々たる臭みを放って、鼻持ちならぬものなのだ。
善を為したが故に、ともすれば自ら驕ろうとする気持ちの醜さを発見せられて、親鸞聖人は「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」と、悲嘆なされている。
人間の善には限度がある。雑毒の善しか積めないではないか。所詮、人間には人間だけのことしかできないのだ、という真実の自己に驚いての、悲痛な叫びなのである。
しかし誤解してはならない。
これは決して冷酷であってよいとか、ズボラであってよいとか、善を修め愛情を注ぐことが害だとか、無用だとか言われているのでは断じてない、ということである。
むしろ、それとは反対に、「真剣に真実の善を求めようと猛進してごらんなさい。真実の善や功徳は、微塵も積めない自己を明らかに発見するから、そこまで進め!!」と教えられるのだ。
真に善根を積もうと懸命に勤めた者だけが、善根のカケラも積めない自己に驚き、心から他人に親切しようとした人だけが、雑毒の親切しかできない、虚仮不実の自分にアキレルのだ。
真剣に孝行しようと、励んだ子供のみが、不孝しかできない自己の悲しさを、体験を通して発見する。
善根功徳ができると自惚れて、小さな一時の善根を売りものにしている。悲しき人間の心が猛毒の塊であるぞ、早く、その実相に驚けよ、と教えていられるのである。