親鸞聖人の虚像と実像
親鸞聖人の実像は常に隠され、聖人の御教えは常にネジ曲げられてきた。
世間の大衆は、親鸞聖人を柔和で優しい、いわゆる、円満な人格者だと信じ込んでいる。しかしそれは、聖人の全貌ではない。
聖人ほど、気性の激しい、根性の強い方はなかった。聖人の肖像は、厳しい風雪に耐え抜いた風貌をあらわし、その文字は、カミソリで書いたように厳しい。これは聖人の気性を端的にあらわしている。
聖人の激しさ、たくましさは、その言動に最も顕著にあらわれている。ある時は、後で後悔される程のものであった。
親鸞聖人のように、常に真実を追求し、真実を体得し、真実に生きぬかれた方は、当然と言えよう。
にもかかわらず世間には、この聖人の一面が全く知られていない。否、知られていないというよりは、故意に知らされないようにされている、と言える。
聖人は、平生は大変柔和であったが、こと信心の問題になり、仏法がネジ曲げられた時は、断固とした態度をとられた。それは弟子達が、びっくりするようなこともあった。
故に、この激しい信心は、しばしば法友との大諍論を惹起した。
ある時、善慧房と親鸞聖人とが肉体を持ったままで、往生できるのか、どうかで大論戦なされた時、聖人は断固、肉体を持ったままで往生できる、と喝破なされている。
聖人の三大諍論として、今日に伝えられている通りである。
親鸞聖人、流罪の冤罪は周知のことだが、その原因を知る人は少ない。
一切の諸仏、菩薩、諸神を捨てて、阿弥陀仏一仏に向かえと、釈尊出世の本懐を叫ばれたことが、越後流罪の最大の理由であった。
特に、諸神を排斥されたことは、社会の秩序を破壊する悪魔として、権力者や、それらと結託する輩の逆鱗に触れ、死刑を受くべきところを、九条公の工作によって、遠流となられたのである。
「主上臣下、法にそむき、義に違し、忿をなし、怨を結ぶ」(教行信証)
の烈々たる批判は、我が儘勝手な、これら後鳥羽上皇らに対する怒りの爆発である。
配処5年の風雪に耐えて関東へ移られれば、聖人を不倶戴天の敵と狙う弁円が、板敷山で待ち続け、遂に稲田の庵室に押しかけた。
「聖人、左右なく出会い給えり」
と言われているように、剣を振りかざす羅刹の前にも、聖人は無造作に出会っていられる。
この一事でも、聖人は如何に豪胆な、激しい気性の方であったかが分かる。
自分が弁円の立場にいたら、自分が相手を殺しに行くのだ。殺すも殺されるも、怨むも怨まれるも、共に仏法を弘める因縁になるのだと、相手を憐れむ偉大な信念に、弁円は明法房と生まれ変わった。
京都の自宅が全焼するという悲運に遭いながら、翌84歳には、善鸞事件がおこり、聖人は断固、我が子を義絶なされた。
「今は、親というべからず、子ということ思い切りたり」と、厳しい勘当状を叩きつけ「かなしきことなり」と、付け加えていられるのも護法の血涙である。
善鸞事件で惑乱され、善鸞の言うことは本当かと、関東から尋ねてきた、命がけの同行に対しても「念仏して地獄に堕ちたりとも、更に、後悔すべからず」と、その激しい気性を打ちまけ、更に「この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも、面々の御はからいなり」と、突っぱねていられる。
殺気さえも感じられるお言葉ではないか。
聖人の真実に向かう、激しさ、厳しさは臨終夕の一念まで変わらなかった。
「親鸞閉眼せば、賀茂川に入れて、魚に与うべし」
死期の近づかれた親鸞聖人のお言葉である。
死んだ肉体に対する非情さは、驚嘆すべきものがある。
この聖人の激しさ、厳しさ、たくましさは、一体、何処から生まれたのか。
この秘密を解くカギは、ただ一つ、阿弥陀仏より賜った、水際立った、鮮やかな一念の信心にあることを銘記しなければならない。