人類の迷信
「人生は、食て、ねて、起きて、糞たれて、子は親となる、子は親となる」
と歌ったのは一休である。また、「人生は、タライよりタライに移る、50年」とも喝破している。
医学の進歩で、人生、7、80年になったが、悠久の天壌から比ぶれば、50年も100年も変わらない。このようなものが人生なら、天井裏のネズミの方が、ズーとましである。
彼らは人間のように、あくせく働かずに陽気に食っている。これでは万物の霊長としての人間の資格は何処にもない。
一体、人間は何の為に、あくせくして生きているのであろうか。
ある処に、愚かな金持ちがいた。ある時、有名な画家を訪問して、見事な作品の数々を見て感嘆した。
それが病みつきで、自分もあのような絵を描いてみたいと思うようになった。
金にまかせて、素晴らしいアトリエを建てた。高価なフランス製の絵の具や、その他、絵に必要な一切のものを買い集めた。
彼は、そこへ閉じこもって一歩も外へ出ずに絵を描き続けた。
数年たって彼は、突然、近所の人々に、アトリエの参観を許した。珍しがって見に来た人々は、どの絵も、どの絵も、小学生が描いたような稚拙なものばかりに驚いた。
そこで近所のある人が、彼を訪ねて種々のことを尋ねてみた。
彼は、アトリエや、絵の具の良いものさえ集めれば、よい絵が描けるものだ、と固く信じ切っていた。その為に、肝心の腕を磨くことを忘れていたという。
金や、財産や、名誉や、地位を得ることが幸福だ、という迷信が、人類を支配している。
迷信に凝り、線香60束でいぶり殺された娘さんや、悪魔を退散させてやるといい殴り殺した事件や、邪教を盲信して医者にかからず、盲腸炎が手遅れになって、一命を失った人達だけが、迷信の犠牲者ではない。
金や、財産や、地位や、名声は、我々を幸福にする材料ではあるが、それがそのまま幸福ではない。
幸福と幸福の材料を混同している迷信こそ、全人類を不幸のドレイにしている。
いくら良い材料ばかり、多く集めても幸福にはなれない。
生け花にしても、料理にしても、洋裁にしても同じである。いけ方を知らなければ美しい花はいけられない。料理方法を知らなければ、美味しい料理は作れない。技術がなければ、つくった洋服は着られない。
たとえ材料は悪くとも、お花の先生は美しい花をいけるし、料理の先生は、美味しい料理を作る。名医の眼には、薬草でないものはないと言われる。悪い材料も生きてくる。
あり余る財産を持ち、立派な邸宅に住み、ぜいたくな生活をしながら、不幸をかこっている人もある。
また、貧しい生活の中にも、我が身の幸福を喜び、力強い、明るい生活を送っている人もいるのはその為である。
昔と比べれば、現代人は驚異的に物質に恵まれていながら、不安と焦燥、満たされない孤独感に悩んでいる。
材料の活殺は、それを使用する人の腕一つにかかっている。
その生かし方を教えたものが、真実の仏法なのである。