(1) この柱も痛かったのよ
うるわしき母子
かつて講演にゆく、車中での出来事である。
ちょうど車内は、空席が多く広々として静かであった。ゆったりとした気持ちで、周囲の座席を独占し、持参した書物を開いた。
どのくらいの時間が、たったであろうか。
読書の疲れと、リズミカルな列車の震動に、つい、ウトウトしはじめたころである。
けたたましい警笛と、鋭い急ブレーキの金属音が、夢心地を破った。
機関手が踏切で、なにか障害物を発見したらしい。
相当のショックで、前のめりになったが、あやうく転倒はまぬがれた。
同時に幼児の、かん高い泣き声がおきる。
ななめ右前の座席に、幼児を連れた若い母親が乗車していたことに気がついた。
たぶん子供に、窓ガラスに額をすりつけるようにして、飛んでゆく車窓の風光を、楽しませていたのであろう。
突然の衝撃に、幼児はその重い頭を強く窓枠にぶつけたようである。子供はなおも激しく、泣き叫んでいる。
けがを案じて立ってはみたが、たいしたこともなさそうなので、ホッとした。
直後に私は、思わぬほのぼのとした、心あたたまる情景に接して、感動したのである。
だいぶん痛みもおさまり、泣きやんだ子供の頭をなでながら、若きその母親は、やさしく子供に諭している。
「坊や、どんなにこそ痛かったでしょう。かわいそうに。お母さんがウンとなでてあげましょうね。でもね坊や、坊やも痛かったでしょうが、この柱も痛かったのよ。お母さんと一緒に、この柱もなでてあげようね」
こっくりこっくりと、うなずいた子供は、母と一緒になって窓枠をなでているではないか。
「坊や痛かったでしょう。かわいそうに。この柱が悪いのよ。柱をたたいてやろうね」
てっきり、こんな光景を想像していた私は赤面した。
こんなとき、母子ともども柱を打つことによって、子供の腹だちをしずめ、その場をおさめようとするのが、世のつねであるからである。
なにか人生の苦しみに出会ったとき、苦しみを与えたと思われる相手を探し出し、その相手を責めることによって己を納得させようとする習慣を、知らず知らずのうちに私たちは、子供に植えつけてはいないだろうか、と反省させられた。
三つ子の魂、百までとやら、母の子に与える影響ほど絶大なものはない。
相手の立場を理解しようとせず、己だけを主張する、我利我利亡者の未来は暗黒の地獄である。
光明輝く浄土に向かう者は、相手も生かし己も生きる、自利利他の大道を進まなければならない。
うるわしきこの母子に、“まことの幸せあれかし”と下車したのであった。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)