(32)なにが家康を天下人にしたか
失敗の教訓
生涯にただ一度の敗戦「三方ヶ原の合戦」が、家康を天下人にしたといえば意外かもしれぬ。
三方ヶ原は浜松市の南西に広がる、東西八キロ、南北十二キロの台地である。
元亀三年十二月二十二日。家康(三十一歳)の一万一千が、武田軍二万五千と激突し惨敗した。
当代随一の名将・武田信玄の遠江侵攻に、どう対処すべきか。
籠城持久戦を主張した信長にたいし、家康は積極作戦を考えた。長期の今川氏からの解放感と、浅井、朝倉を撃破した自信から、〝信玄恐るるに足らず〟の思いあがりが家康にはあった。
一方、浜松城の堅塁を知っていた信玄は、大胆な欺瞞作戦で、家康を三方ヶ原へと誘いだし、武田騎馬隊の勇名をほしいままにした。
信玄が投げたエサに食いついた家康は、若気のいたりといわれても、しかたがなかろう。
命からがら、彼は浜松城へ逃げ帰っている。
「彼を知りて己を知らば、百戦してあやうからず。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとにあやうし」
孫子の言を三方ヶ原で、家康は証明させられた。
ただし家康の偉大さは、敗因が慢心にあったことを深く反省し、信玄を師とあおいで、彼の戦術戦略を学びとったところにある。
三方ヶ原の敗戦から二十八年たった慶長五年。石田三成と天下を争ったとき、みごとに彼は、この失敗の教訓を生かした。
まず、石田三成ら反徳川勢に挙兵させるため、みずから上杉討伐に出かけてスキをつくる。
決戦前日には〝三成の本拠、佐和山城を突く〟との偽情報を流して、大垣城に拠る西軍を関ヶ原へ誘いだすことに成功し、殲滅している。
信玄が自分にとった戦法を、そっくりまねたのだ。
失敗を成功のもとにするのは、心構え一つである。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)