(34) 智恵ある者に怒りなし。
よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず
あるとき、邪教徒の若い男が釈尊の所にきて、さんざん、悪口雑言ののしった。
黙って聞いておられた釈尊は、彼が言い終わると、静かにたずねられた。
「おまえは、祝日に、肉親や親類の人たちを、招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その罵詈雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」
「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順したという。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)