(38)小にこだわり大を失う
牛をすられた農夫
人通りの少ない山道を、大きい牛をひいて、わが家へ急いでいる一人の農夫があった。
牛は彼の最も大切な財産らしく、ふり返りふり返り、いたわりながら、日暮れの道を急いでいる。
やがて、農夫の後ろに二人のあやしげな男が現れ、一人が仲間にささやいた。
「おい、あの牛を、すり取ってみせようか」
「おまえがなんぼスリの名人でも、あんな大きな牛じゃねー」
相棒は首をかしげた。
「よし、それではやってみせるぞ。おれの腕前をみていろ」
二人はスリが本職だった。
牛をすってみせると言った男は早足で、グングン歩きはじめ、牛を追い越し、曲がり角の小さな地蔵堂の所で姿を消す。
農夫は薄暗い地蔵堂の角に、なにか落ちているのをみつけた。
拾ってみると、サラの皮靴の片方ではないか。
「せっかくの、すごい拾い物だが、片方じゃ使い物にならんわい」
ぶつぶつ悔やみ言をいいながら、靴を投げすて、しばらくゆくと、またなにかが落ちている。
拾ってみると、先ほど捨ててきた相手の靴である。先のと合わせると、新品の靴一足になる。
農夫は、しめたと思った。
「だれも通らぬ山道だ。まだあるにちがいない」
牛を道ばたの木にくくりつけ、飛ぶように引き返すと、案の定、靴はあった。
「今日は、なんと運のよい日だろう。こんな立派な靴が、ただで手に入るとは……」
得意満面、喜び勇んで帰ってみると、農夫の最も大事な牛の、影も形もみあたらなかった。
目先の欲に心を奪われて、最も大切なものを失う人の、いかに多いことか。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)