(45)さてこそ水は尽きたとみえる
元就はどうして相手の戦略の裏を見ぬいたのか
「1本の矢は折ることができるが、3本を束にすると折れない」
3人の息子たちに、こう訓戒したという毛利元就は、戦国武将の中でも、とりわけ智略にたけていた。
21歳の初陣から75歳で没するまでの55年間、大小226回の合戦をしたという。平均して年4回、戦場に立った計算になる。
結果はどうであったか。所領、わずか75貫の小城主だった元就は、安芸・備後(広島県)、周防・長門(山口県)、石見・出雲(島根県)を制覇し、ついに中国全土を支配するにいたった。
石見の青屋友梅の城を攻めたときのことである。
元就は包囲して、城内の水が尽きるのをひたすら待っていた。
友梅もなかなかの智将で、毛利軍に見える所へ馬を引きだし、米で馬を洗ってみせた。遠目には、それが水を使っているように見える。
老臣からさえ、作戦の変更を進言する者があったが、元就は、いっこうに耳をかそうとしない。
数日後、元就は、軍使として井上光親を城内へ送りこんだ。
光親を丁重にもてなした友梅は、
「私は馬が好きでしてなぁ。おなぐさみにお目にかけよう」
と言って馬を5、6頭引きだし、今度は本物の水を、たらいになみなみとたたえて、頭を冷やさせたり口を洗わせたりした。
期待はずれの表情の、光親の報告をきいた元就は、
「さてこそ水は尽きたとみえる」
と言って、いよいよ包囲を厳重にする。青屋友梅が降伏開城したのは、それからまもなくのことであった。
相手の戦略の裏を見ぬく目を、元就は備えていた。
天性もあろうが、寝食忘れて一歩一歩堅実に、磨きあげた感覚にちがいない。
「寝ているうちも、心の休まることがなかった」
という晩年の元就の述懐からも、それはうかがえる。
ひとのゆく ウラに道あり 花のやま
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)