(50)殿さまの命令に従わなかった船頭
真のプロ
鍋島加賀守が江戸に参勤のため、瀬戸内海を船で走り、その日のうちに大阪に着こうと予定していた。
ところが船頭が、一点の曇りも風もないのに、急に叫んで舟子に帆をまかせ、舟を高砂の入り江に着けようと騒いでいる。
加賀守は数度往来して、西国の海上には慣れていた。
「これはいったい、どうしたことか」
船頭を呼びつけ、きびしく詰問した。
「まことに申し訳ありませんが、天候が急変しそうで油断ができませぬ。殿に万一のことがあればと思いまして、出航を見あわせました」
「ばか者、この天気を見ろ。うつけ者めが。こんなときに嵐がおこるはずがあるか。かまわぬから、ただちに船を出せい」
きつい下知に黙って引きさがったが、船頭は、いよいよ高砂の浜に船を急がせた。
「おのれ余の命令にさからう気か。もし天候が変わらなかったら、そちの首をはねるから覚悟しておれ」
「承知いたしました。もし天候の激変がなければ、殿には、これほどのおめでたいことはありません。私めは切腹いたしまする」
きっぱりと、船頭は答えた。
それから一刻とたたぬうちに、一天にわかにかき曇り、烈風忽然と吹ききたり、波浪奔騰したが、船頭は舟子たちを励まして、ようやく九死に一生をえて、ことなきをえた。
大役を終えた船頭は、14歳になるわが子を前に諭した。
「船頭がいったん舵を握れば、何人の指図も受けてはならぬ。たとえ身命を失うとも、己の信念どおりに船をあやつるのが船頭じゃ。今日のことを、よくよく忘れるでないぞ」
加賀守は、いたく感嘆し称賛した。
いかなる権威や恫喝にも屈せず、己が信念を貫く者こそ、その道のプロである。真のプロでなければ、大事を成し遂げることはできない。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)