(51)逃げ場がないから必死に戦う
数千の韓信軍、20万を破る
中国の天才的名将・韓信が紀元前204年、黄河の守りを突破して、魏王と代の宰相・夏説を生けどりにし、連戦連勝、破竹の勢いで趙国に進撃した。
「いかに韓信の兵が強くとも数千にすぎない。しかも本国を離れること千里の遠征で、極度に疲労している。正々堂々、一撃で勝ってみせる」
と豪語する趙の将軍・成安君陳余は、20万の大軍をもって、これを迎撃する。
実情はそのとおりであったが、韓信が用兵の天才であることを見逃したのが、彼一代の不覚であった。
韓信は兵を河向こうに進めて、世に有名な、背水の陣を布く。
これを望見した趙の将兵は、その原則はずれの配備を嘲笑した。
河川の付近で防勢をとるには、河川を敵の威力をそぐ障害にするために、後方に陣を構えるのが常道だからである。
ここぞと全力あげて攻撃に出た趙軍は、後ろに大河をひかえて逃げることのできない韓信軍の、必死の抵抗に苦戦して、ひとまず引きかえそうとしたところを、前後から挟撃されて、たちまち崩壊した。
将軍の成安君陳余は斬殺され、趙の歇王はとらえられた。
後日、なぜ原則はずれの背水の陣をとったのか、の問いに韓信はこう説いた。
「なるほど水を背にして陣をするのは、みずからの退路を絶ち、最も危険な態勢ではあるが、それだけ必死になる。正規軍のほとんどを本国に引きあげられたわが軍の主力は、占領地で徴集した新兵ばかりで、残念ながら烏合の衆であった。後ろに河がなければ、みな逃げてしまうであろう。背水の陣を布かざるをえなかったのである。彼らは逃げ場がないから必死に戦い、とても勝てないとみえた趙の大軍を、潰滅させることができたのである」
なみいる将星は感服した。決死は、すべての道を開くのである。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)