(57)目先に一喜一憂しては、
遠大な未来を見とおせない
イタリア、オーストリアと戦い、連勝のナポレオンが凱旋した。
イルミネーションや旗行列、たいまつや鐘、祝砲など、国民の慶賀は、その極に達する。
部下の一人が、うやうやしく祝辞をのべた。
「閣下、このような盛大な歓迎を受けられ、さぞ、ご満悦でありましょう」
意外にもそのとき、ナポレオンは、冷然と、こう言っている。
「ばかを申すな。表面だけの騒ぎを喜んでいたら大間違いだ。彼らは、少しでも情勢が変われば、またおれを〝断頭台に送れ〟と言って、やはり、このように騒ぐだろう。雷同の大衆の歓迎など、あてになるものか」
幕末の剣客で名高い千葉周作が、ある晩、2、3の門弟を連れて、品川へ魚つりに出かけた。
松明を照らして、沖へ沖へと魚を求めてゆくうちに、方角を見失ってしまった。
どちらが陸か。
さすがの周作先生も、ろうばいして、多くの松明をどんどん燃やさせ、四方をうかがうが、まったく見当がつかない。
あせりながら海上を、さまよううちに、たよりの松明が尽きた。
いよいよこれまでかと観念した。ところが、よくぞ言ったもの。
〝窮すれば転ず、転ずれば通ず〟あたりが真っ暗になるにつれ、闇の中にくっきりと、濃い陸地の影が見えてきたではないか。
一同、歓呼の声をあげた。
後日、周作が、その体験を知人の漁夫に話すと、ニコニコしながら、こう言ったという。
「先生らしくもないことです。松明で陸は見えませぬ。松明は足元を照らすもの。遠いほうを見るときは、かえって、その光がじゃまします。そんなとき私たちは、ワザと松明を消すのです」
松明にたよっている間は、遠い陸地が見えないのだ。
目先に一喜一憂していては、遠大な未来を見とおすことはできないのである。
(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)